roji roji roji 特選路地のまち roji roji roji
 
Vol.5 新潟市中央区(1)
「小路」から見る、新潟の町
路地連新潟
「歴史と成り立ちをいまに伝える新潟の町並み」
 信濃川の河口に栄えた湊町・新潟町は、そのむかし、現在より海岸寄りの場所にあったといわれています(古新潟町)。しかし江戸時代のはじめ、河口の湊が浅くなった為、より湊へ近い場所へ町を移転する事となりました。移転工事は明暦元(1655)年にほぼ完了しました(明暦の移転)。この時、作られた町割りが、現在の新潟市の中心部に残っています。
「新潟の小路(こうじ)」
 移転した新潟町は計画的に作られました。川と海から運ばれてきた荷物を運搬・取引するため、信濃川に沿うように「堀」と「通り」が設けられ、信濃川に直交するように数多くの「小路」が設けられました。「堀」は昭和39(1964)年までにすべて埋め立てられ道路に変わってしまいましたが、「小路」の位置は当時のまま、昔から愛着を持って名づけられた名前も今に伝わっています。
「古町の花街・西堀の寺町」
 また地域ごとに商売も決められ配置されました。みなとまちのもてなしの文化が残る「古町の花街」。町と砂丘との境に一直線に並べられた「西堀の寺町」の風景が、その事を今に伝えています。

「新潟の下町(しもまち)」
 新潟町の移転後も河口の土砂の堆積は続きました。河口には新しい土地がひろがり、新しくできた土地は開発され、人が住むようになりました。この場所が、迷路のような複雑な町並が残る「新潟の下町」エリアです。
「坂のキワの松」
 また、海へと流れた砂は日本海の波と風にのり、海岸の砂丘へと姿を変えてゆきました。増え続ける砂丘は新潟町にとって深刻な飛砂被害をもたらしました。現在まちなかの坂(砂丘地)のキワに「松の巨木」が並ぶのも、江戸時代から続く新潟町と砂との戦い(砂防林事業)の歴史を今に伝えているものです。
「坂の上の町」
 安政5(1858)年、新潟は日米修好通商条約で開港場のひとつに指定され、戊辰戦争後の明治元(1868)年、開港しました。開港五港にふさわしいまちとなるべく、坂(砂丘地)の上の町が整備され、学校や病院が建てられました。新潟の坂の上には開化政策の舞台となった歴史が残っています。

 
 最近、新潟の町では「小路」「花街」「寺町」「下町」「自然(松)」「地形(坂)」といった切り口を持って、町に興味を持ち、めぐり、楽しむ仲間が増えています。風景、地形からのメッセージに、町の人々が反応し始めているようです。

 次回は、そんな新潟の町の動きをご紹介します。
 
著者略歴

平成20(2008)年、「小路歴史案内板」&「新潟の町・小路めぐり地図」を製作するにあたり、なんとなく結成された仲間たち。

メンバー構成
まちあるきガイド・デザイナー・市職員・豆腐屋・団子屋・アナウンサー・学生・一緒に歩き路地バッジを手にした人 等々。

※ 女子カメラ部・猫好き部 等も存在。

2008年 新潟の町・小路めぐり<本町通り界隈編>
2009年 新潟の町・小路めぐり<古町通り界隈編>
2010年 新潟の町・下町あるき 日和山登山のしおり
2011年 新潟の町・坂道めぐり・寺町あるき 製作
2011年 日本都市計画学会「自治体優秀まちづくりグッズ賞」受賞
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特撰路地のまちもくじへ 新潟市で推薦された路地百選候補(20111003現在) 路地百選へ
086新潟県新潟市
中央本町人情横丁
(20080601鈴木隆男氏)
123新潟市中央区本町通
本町通り界隈
(2010.05.26rojiren-niigata)
124新潟市中央区古町通
古町通り界隈
(2010.05.26rojiren-niigata)
125新潟市中央区西堀通
西堀寺町界隈
(2010.05.26rojiren-niigata)
126新潟市中央区
四ツ屋町〜旭町 新潟砂丘の坂道
(2010.05.26rojiren-niigata)
127新潟市中央区
柳島町〜東堀通十三番町
下町 日和山登山の道
(2010.05.26rojiren-niigata)
128新潟市中央区
西厩島町〜礎町 下町 島の記憶
(2010.05.26rojiren-niigata)
142新潟県新潟市江南区
袋津の路地
(20101119伊藤純一氏)
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