「新潟の小路(こうじ)」 |
移転した新潟町は計画的に作られました。川と海から運ばれてきた荷物を運搬・取引するため、信濃川に沿うように「堀」と「通り」が設けられ、信濃川に直交するように数多くの「小路」が設けられました。「堀」は昭和39(1964)年までにすべて埋め立てられ道路に変わってしまいましたが、「小路」の位置は当時のまま、昔から愛着を持って名づけられた名前も今に伝わっています。
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「古町の花街・西堀の寺町」 |
また地域ごとに商売も決められ配置されました。みなとまちのもてなしの文化が残る「古町の花街」。町と砂丘との境に一直線に並べられた「西堀の寺町」の風景が、その事を今に伝えています。
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「新潟の下町(しもまち)」 |
新潟町の移転後も河口の土砂の堆積は続きました。河口には新しい土地がひろがり、新しくできた土地は開発され、人が住むようになりました。この場所が、迷路のような複雑な町並が残る「新潟の下町」エリアです。
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「坂のキワの松」 |
また、海へと流れた砂は日本海の波と風にのり、海岸の砂丘へと姿を変えてゆきました。増え続ける砂丘は新潟町にとって深刻な飛砂被害をもたらしました。現在まちなかの坂(砂丘地)のキワに「松の巨木」が並ぶのも、江戸時代から続く新潟町と砂との戦い(砂防林事業)の歴史を今に伝えているものです。
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「坂の上の町」 |
安政5(1858)年、新潟は日米修好通商条約で開港場のひとつに指定され、戊辰戦争後の明治元(1868)年、開港しました。開港五港にふさわしいまちとなるべく、坂(砂丘地)の上の町が整備され、学校や病院が建てられました。新潟の坂の上には開化政策の舞台となった歴史が残っています。
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最近、新潟の町では「小路」「花街」「寺町」「下町」「自然(松)」「地形(坂)」といった切り口を持って、町に興味を持ち、めぐり、楽しむ仲間が増えています。風景、地形からのメッセージに、町の人々が反応し始めているようです。
次回は、そんな新潟の町の動きをご紹介します。
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