roji roji roji 特選路地のまち roji roji roji
 
Vol.1 東京深川の路地(1)
 〜深川の成り立ち〜
鈴木 隆男
1.深川の名前の由来発展
 深川の開発は、徳川家康が入府する天正18年(1590)以降で、当時の深川は、葦の生い茂る隅田川河口の湿地帯であった。現在の森下を拠点に深川の由来となる深川八郎右衛門が埋め立てを行い、以後、開発地は、江戸の近郊農村から武家屋敷町、明治以降は商業地として発展していくことになる。

(1)明暦の大火以後の深川の発展
 明暦3年(1657)に起こった明暦の大火以降、幕府は本所や深川の開発を積極的に行う。明暦の大火で幕府は10万人余りの焼死者を牛島南部に葬り、回向院を建設、防火対策中心の都市復興に着手した。万治2年(1659年)には隅田川に大橋(両国橋)を架け、市中に防火堤や火除地を設け、防火計画により武家屋敷などの移転先に選ばれたのが本所・深川である。

深川不動尊前ご利益通り
 本所築地奉行を中心に、竪川・大横川・小名木川の開削や南北通りの設置による区画整理を進め、武家屋敷や寺院を主とする寺町を形成、江戸の市街地の一部となった。
日本橋にあった貯木場(木場)も深川に移転、それに伴い材木職人や木挽職人、木工や指し物職人等が移住し多くの長屋街と路地が形成された。また、漁業が盛んな土地であり、漁師の多くは、取り立ての生のアサリを飯の上に乗せて、みそ汁を掛けた「ぶっかけ飯」を船上等で食べていた。これが後に、深川めしと言われ、明治には深川丼になる。 
(2)富岡八幡宮の創建と深川の発展
 深川の中心となる富岡八幡宮は、寛永元年(1624)に創建された。僧長盛が八幡神像を祀った祠が富岡八幡宮の始まりという。間もなく八幡宮前の通りを挟んで両側に板葺の茶屋が建てられ、人の往来が盛んになった富岡八幡宮周辺に路地が形成される。
 富岡八幡宮への船での参拝客が増え、遠浅の海が次第に埋めたてられ仲通り沿いには門前町が発展し路地が形成される。やがて遊興街が生まれ、この新興の地に宵越しの金は持たぬという気風のよさが育まれた。深川芸者(辰巳芸者)の中に芸を重んじ、粋(いき)などの深川気質(かたぎ)が生まれる。

辰巳新道
 
2.明治維新後の深川
 明治維新(1868)により江戸は東京と改められ、深川は、東京府下となり、後に深川区が置かれた。明治・大正期には、武家屋敷跡に多くの工場が立地、商業も発展し、そこで働く人たちの木造住宅も建設され人口が飛躍的に増加し多くの路地が形成された。
 明治後半には、水運を利用した倉庫業、輸送業が盛んになり、「旦那衆」が生まれ、深川の花柳界や料亭などが隆盛を極めた。仲町には黒塀に囲まれた路地がたくさん生まれた。
 
 大正12年(1923)の関東大震災では、深川で約49,000戸の家屋が焼失した。復興事業が開始され、現在の大通りは、この時の区画整理ででき、私有地に多くの路地が形成された。また、現在の大部分の橋がこの時整備され、主要なものは鉄橋となった。
 昭和20年(1945)3月10日、深川、本所等の下町地域に、米軍機約300機が焼夷弾約33万発を投下した。路地と密集住宅街で成り立つこの地域の被害は約30平方キロ に及び、死者約10万人、負傷者約40万人、焼失家屋約27万戸になった。
 終戦後、疎開者の帰京、戦地からの復員、引き揚げ者などで同地域は人口が急激に増加、焼け跡に闇市が立ち、後に商店街へとなり、多くの住宅が建ち、路地が形成される。
東京深川の路地(2)につづく
著者略歴

昭和50年、立正大学文学部史学科卒業
中小企業診断士、商業施設士
平成14年、全国商店街振興組合連合会研究員
平成16年から20年、(社)日本販売士協会広報委員会委員
平成19年から 、江東区経営相談員
登 録
椛S国商店街支援センター 支援パートナー
中小企業基盤整備機構
  中心市街地商業活性化アドバイザー  商業活性化アドバイザー
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009東京都江東区
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(20070911鈴木隆男氏)
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