2.中野北口の歴史(戦前) |
明治中期以降、都心からの転居者などにより人口が増加し、特に1923年の関東大震災以降は、浅草から寺院が新井薬師周辺への移転が始まり小京都の様な佇まいが出現しました。そして、住宅地化が急速に進み、昭和40年代までに農地はほとんど姿を消しました。
中野の発展は1889 年の新宿と立川を結ぶ甲武鉄道開通に伴う中野駅の設置に始まり、1896 年には日本陸軍基地の創設に端を発していて、戦前は東中野1丁目・2丁目界隈は旧帝国軍人の街として地元でも知られていました。ターミナル駅新宿に直結した利便性により住宅化が進み、さらに軍人とその家族などが中野の住民として増えたことにより繁華街が発達しました。
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3.中野北口の歴史(戦後) |
戦後、旧日本陸軍の土地に米軍が駐屯し駅前は米軍の物資の横流しもあり闇市が発達、当時は中央線沿線で最も発展した闇市と称されました。この闇市が現在のサンモールなど中野駅北口一帯に広がる繁華街を生み出しました。戦前からの繁華街ですが、大戦の空襲で焼け野原となり戦後闇市が発達しました。
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中野駅北口周辺は戦後区画整理が行われていないため、闇市時代のままの路地が入り組んでいます。一番街から五番街や仲見世の通り名は戦前のものと思われますが、白線通りは戦後の名称です。米軍基地周辺の白人米兵相手の売春街を俗に白線地帯と呼んでいました。1957 年4 月の売春防止法施行後、もぐりで売春をするものも多く、赤線のプロでない素人売春に白一色の麻雀牌の「白板」をかけたことに由来とするといわれています。
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白線通り |
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4.中野北口の歴史(現在) |
中野区は東京都でも指折りの住宅密集地区であり、道路都市基盤が全般的に脆弱であるため、都心、副都心地域や都心隣接の下町地域のような商業地区化には至りませんでした。
昭和30年代以降、多くの漫画家が住んだため、現在も漫画・アニメーション製作は、隣接する杉並区と並んで盛んで、中央線沿線地区を中心に専門学校が数多く存在します。
中野駅周辺には、コスプレのメッカ、中野ブロードウェイをはじめとする大型商業施設や中野サンモール商店街など多くの個人経営が中心の商店街が立地しています。丸井は中野駅前が創業の地であり、現在も本社があります。
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ブロードウェイ |
ブロードウェイ・マンダラケ |
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5.中野北口の再開発と路地 |
2012年には、中野駅北口周辺における再開発地域「中野四季の都市」がオープンしました。キリンホールディングや栗田工業の本社が移転、帝京平成大学、明治大学や早稲田コミュニティプラザが進出して、昼間人口が約2万人増加しました。
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四季の都市のイベント |
四季の都市のオフィス |
四季の都市大学 |
この頃から昼食難民と言う言葉がはやり始め、北口の飲食街には新たなお店が進出し、まちの変化に対応するように2012年6月中野区観光協会が発足し、LUNCH中野路地裏MAPやザ・中野MAPランチde北口編などのマップを作成しました。北口の飲食街の路地には、サラリーマンがさらに多くなり学生も増えてにぎわいを増しています。
彼らのお目当ては路地に連なるランチを提供するお店です。中野MAPランチde北口編ではジャンルごとのベスト1ランチを発表、中野区役所2階の満点食堂のコスパランチ、ご飯のサービスがあるKaeruのボリュームランチ、新宿が見渡せる20階にある121ダイニングのミーティングランチ、野菜中心の家庭料理の中華香林坊のヘルシーランチ、季節の旬ネタが食べられる魚菜庵の隠れ家ランチなどなど大手チェーン店では味わえないランチのオンパレードが紹介されています。残念ながらこのマップにはクーポンが付いてないのが惜しいが、紹介されているお店は逸品ぞろいです。
中野通りを挟んで東側は飲食店が多い路地のまち、西側は区役所やサンプラザ、再開発による新市街地の形成地区、中野北口には新旧二つの「まち」が存在します。
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路地裏マップ |
ランチマップ北口編 |
ランチマップ南口編 |
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