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「都内で登山」
コロナだ、オリンピックに熱中症、おまけに台風
それでもめげず都内で登山

40:補足:台地の端
※このコラムにおいて「都内」とは、概ね23区の範囲を言います。
2021年夏 今井晴彦
 
 自然地形の山はほとんど、台地の端とか先端を山と読んだものであった。例えば愛宕山は日比谷入り江に突き出た台地の突端であるし、飛鳥山は上野から伸びて来た台地の端にある。
 また山となっているところは公園緑地となっているところ、寺社境内となっているところが多いことも特徴である。何故なのか?と思ったが、大体江戸時代であれば、台地は大名屋敷などの武家地になっていて、町民は谷の低い部分に居住していて、商店街も従って谷底に発展してきたわけで、そうすると庶民から台地を見上げるという視点が多くなり、その結果台地の端は大変目立つ場所になったということであろうか。

 古墳の分布を見ると、これがまた台地の端にあるものが圧倒的に多い。古墳の上に社寺がたっていることはかなりあるそうで、富士塚になってしまった例もあった。貝塚がこの台地の端にあるが、これは水水辺への近接性が主で内陸より海沿いになるが、目立つということではないであろう。
 縄文からの遺跡が台地に多いことから、古墳を作った人たちは主に台地に居住していたのだろう。とすると台地の端が目立つからという理由で古墳を作ったというわけではない。むしろ生活圏の端に、さらにその先だと資材を降ろすなどの作業が発生するから避け、築造したということなのか。

 一方江戸時代の四季の名所の分布を見ると、これもほとんどが台地の端である。すなわち江戸になると目立つ場所が台地の端ということになる。
 一方谷に住んでいる町民が台地に上がってその端からあたりを見回すと、日常とは大きく異なる風景が広がる。富士山も見える、家並が見えるということで現代の山登りやハイキングと同様の楽しみが得られる行楽の地になった。
 ということで、台地の端は古代と近代で大きく意味を変えたのではないだろうか。しかし、特殊性を持つ場所ということは共通していて、行楽、宗教など非日常的な場として活用されてきたということではないだろうか。

 ということで台地の端を歩くと色々面白いものに出会う可能性があるのではないかと、都内の
登山は妄想がわいてくるような経験であった。
 

古墳の分布
「水都 東京」 陣内秀信 ちくま新書
 
完 
著者略歴
今井晴彦(株式会社サンプランナーズ代表取締役)
東京大学都市工学科卒。
都市計画コンサルタント会社を設立し、国内外の地域振興、都市計画、観光計画、まちづくり等を行っている。(株)アルメック技術顧問、諏訪市政策アドバイザー(非常勤)、全国路地のまち連絡協議会世話人、地域振興アドバイザー(国土交通省)などを務める 。
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