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 32:三笠山
※このコラムにおいて「都内」とは、概ね23区の範囲を言います。
2021年夏 今井晴彦
築造年:1902年 所在地:千代田区日比谷公園1−6 標高9m

 
 日比谷はかつて日比谷入江といって、海が入り込んでいたところを、江戸になって埋め立てて、佐賀鍋島の屋敷になっていた。

 その後明治になり練兵場などの軍用地として活用されていたが、市区改正計画で公園という計画になり、1893 年日比谷公園と命名された。それが実際に整備され開園となったのは1903年のこと、その際池の整備などで余った土を集めてつくられたのが三笠山であり、いわゆる築山である。
 右の1907 年図に示されるように3つのピークがあり、笠を3つあるようだということで三笠山という名前になった。その後テニスコートが整備されたりして、今は2つになっている。
 標高5m程度の低地であるので、山の標高は9m程度のようだ。できた当時は多くの人が訪れていたようだが、今は日比谷公園に来た人が三々五々やってくる程度。むしろもう一つのピークにある巨大な鐘が目を引く。

 米国建国の時の「自由の鐘」のコピーがたっているのである。そこに掲げられた説明版には次のように記述されている。
 
 
 自由の鐘は1776 年米国の独立宣言に際し自由の喜びを天下に告げた歴史的記念物である。
 しかし、この鐘はその鐘銘の聖句にもある通り「すべての国とその住民に自由を告げる」自由の象徴である。米国民の匿名有志はその複製を連合国総司令官リッジゥエイ大将に託し、これを広く日本国民に贈りたいと申出た。よってリッジゥエイ大将は自由の擁護者たる新聞を通じ広く日本国民に贈ることが最も寄付の趣旨に副うものとして昭和27 年(1952)4 月日本新聞協会に寄贈された。
 日本新聞協会には日比谷の一角に自由の鐘塔を建造してこれを東京都に寄贈し広く日本国民と共に自由の鐘の歴史的意義を銘記せんとするものである。
昭和27 年(1952)10 月 社団法人日本新聞協会
なおその後老朽化してきたため、募集金により2011年に再整備された。
 
開園当時の三笠山
http://jaa2100.org/entry/detail/037116.html
     

複製/自由の鐘
つづく 
著者略歴
今井晴彦(株式会社サンプランナーズ代表取締役)
東京大学都市工学科卒。
都市計画コンサルタント会社を設立し、国内外の地域振興、都市計画、観光計画、まちづくり等を行っている。(株)アルメック技術顧問、諏訪市政策アドバイザー(非常勤)、全国路地のまち連絡協議会世話人、地域振興アドバイザー(国土交通省)などを務める 。
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