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 11:富士塚
※このコラムにおいて「都内」とは、概ね23区の範囲を言います。
2021年夏 今井晴彦
 富士塚は都内にいくらあるか、約50あると言われるが、正確な数字が見つからない。おおよそ高さ6〜10m、直径20〜30mくらいの人工の富士山である。
 1780年に高田藤四郎という人が建てたものが最初と言われる。背景には富士山への信仰があり、江戸時代に爆発的に流行した富士講が、主として関東で広まったので、富士塚も多くは関東にある。

 戦国末から江戸初期に活動した長谷川角行という人が富士講の開祖とされる。富士宮市に今もある人穴で修行し、流行病を祈祷でなおすということで、江戸でその信仰が広まったもので、講中に8 万人と言われた。
 当時の人にとって富士山登山はめったにできるものではなく、そのため講を作ったと想定され、そのなかで富士山のミニチュアを作って、富士山の山開きの日(現在は7 月1 日)に登った。
 自然の高い土地だとか、古墳の後を使うなどもあったようだが、多くは土と岩を積み上げ、できれば富士山の溶岩をそこに配し、ありがたみを加えている。また洞窟での修行という由来を反映して、洞が設けられているのも多い。

 しかし、明治政府の宗教弾圧、さらに富士山に行くことが容易になっていったことなどの理由から、富士講はほとんど消滅していった。
 御師(おんし)と言われる富士山詣をサポートする存在は今もなお富士宮市に5軒ほど残っているそうで、都内では16講がまだ活動しているという資料もある。

 一方富士塚はこの講の人たちが建設していったと思われるが、現在残っているのは神社境内地にあるもののようだ。なかには寺の場合があるが、普通は神社である。明治政府の宗教弾圧で、富士講が国家神道へ衣替えさせられたこともあると思われるが、神社境内地でないと残っていくのが難しかったのかもしれない。
 
江戸七富士(斜め字は国の重要有形民俗文化財)
名称 境内 所在地 築造年
品川富士 品川神社 品川区 1869
千駄ヶ谷富士 鳩森八幡神社 渋谷区 1789
下谷坂本富士 小野照崎神社 台東区 1828
江古田富士 茅原浅間神社 練馬区 1839
十条富士 十条富士神社 北区 1881/1840
音羽富士 護国寺 文京区 1814
高松富士 富士浅間神社 豊島区 1862
つづく 
  
著者略歴
今井晴彦(株式会社サンプランナーズ代表取締役)
東京大学都市工学科卒。
都市計画コンサルタント会社を設立し、国内外の地域振興、都市計画、観光計画、まちづくり等を行っている。(株)アルメック技術顧問、諏訪市政策アドバイザー(非常勤)、全国路地のまち連絡協議会世話人、地域振興アドバイザー(国土交通省)などを務める 。
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